UNIVERS ZERO/HERESIE

Heresie

Heresie

おおよそクリムゾンやジェネシスなどが正の系統を辿るプログレならば、このユニヴェル・ゼロは負の、陰の、その陽光が差し込む隙間もない深海的プログレの系譜である。盟友にアール・ゾイ(アート・ゾイド)、師匠にマグマといった塩梅で、ベルギー代表暗黒チェンバーの始祖とも言われる。陳腐で劇的な(ヤクラのような)要素は皆無、ただその焦点をひたすら動かすことなくオカルトとは無縁に暗闇にライトを灯し続けるのが役割のような執拗で観念的な映像美に終始する。これは彼等の2ndで、名盤と名高い3rd『Ceux du Dehors』へ辿り着く前のシンプルには程遠いグロテスクな構成によって彼等の本質が剥き出しにされている。

ROGER WATERS/AMUSED TO DEATH

Amused to Death

Amused to Death

ロック界のコンセプト・アルバムの歴史を辿るならばその端はサージェント・ペッパーを中心に据えながらもキンクスやらプリティ・シングスムーディーズ辺りが論争の的になるのは世の常であるが(?)、更なる上層キング・オブ・コンセプトの世界で言うならば徹頭徹尾ガチガチのロジャー・ウォーターズを置いて他にない。プログレのモンスター・アルバム『狂気』のその社会性と音響的(フロイドは寧ろ初期の1,2作の方が音響的だったが)な構造と曲の配置でプログレッシヴ・ロックの市民権の獲得は大よそ彼等によって為された。次作『炎』からはより壮大な長編作りに彼等は励み、シド・バレットを「既に消えてしまった英雄」に仕立てた。
さて、この死滅遊戯はフロイドの有終の美を飾った『ザ・ウォール』『ファイナル・カット』より更なる続くロジャー・ウォーターズの独白的世界観が嫌というほど綴られている。フロイドよりさらにガチガチに硬化した攻殻機動隊のような世界である。美しくも儚く、一方で力強いロジャー・ウォーターズのヴォイスはドラマそのもので、その圧倒的な言葉数で埋め尽くした詩は小説である。基本的にロジャー・ウォーターズのアルバムはヒッチハイクの賛否両論、RadioKAOSといい、いや寧ろ『狂気』の頃から何ら変わっていない。
年齢とともに己の社会性も後退していき、やはりこういった社会性はモラトリアム特有の為せる業なのであろうか、正直真剣に聞くにはかなり後ろめたさを感じるのは否めない。というより年齢が社会性を後退させるのではなく、現代の『事なかれ主義』の蔓延こそその原因がある気がする。ふと昨今のチベット問題をテレビでぼーっと眺めているとこの死滅遊戯を思い出した次第。

SUN RA & HIS ARKESTRA/SOME BLUES BUT NOT THE KIND THATS BLUE

Some Blues But Not The Kind Thats Blue (1977)

Some Blues But Not The Kind Thats Blue (1977)

枯れ果てた泉から湧き出るシンフォニア。70年代初期のスウィングする事から距離を取りつつも(私の知っている限り)一転してメロディックなコードを多用しメロウで神秘的な歪みとポスト・フリーの幾分整理された乱雑を以って奇跡的融合を果たした悠久の70年代後期のメロウ盤が再発。スタンダード・カヴァーが多くを占め、そしてそれらのベクトルがあくまで「JAZZ」的スウィング感を伴い、厳粛なノスタルジアサウダージが交錯する。?'LL GET BYとMY FAVORITE THINGSのジャズ・イディオムに則った解放っぷりは正しく爽快。

MOTT THE HOOPLE/THE HOOPLE

あなたは誰になりたいか、と問われると出てくる答えは決まってイアン・ハンターやデヴィッド・ボウイ。声に出して『ロックンロール』と言った時の恥ずかしさは親にオナニーを見られた時のような羞恥と似たようなものがある。修学旅行における「好きな子は誰や」トークのノリである。ある種の秘密を共有し、結局その秘密は周知に知れ渡り、秘密自体何だったのか分からなくなるノリである。スーパーマリオで無敵になり突っ走るあのグルーヴ感である。グラム・ロックの雄、モット・ザ・フープルはそんな「辱め」を快楽に変える事が出来た稀有なバンドの一つである。書いていて恥ずかしくなったのでもう止めるが、俺はまだ「すべての若き野郎ども」に含まれていると信じたいがためにモット・ザ・フープルを聴くのである。

BILL HOLT/DREAMIES

Dreamies

Dreamies

イマジネーションを喚起させる音楽と謳うならば間章をして導師と言わしめたタンジェリン・ドリームと、俺をしてロマニー・サイケと言わしめたビル・ホルト・ドリーミーズ、ジョー・ミークに止めを指す。チープな電子音をスープ状にしてドリーミーなフォーク・ミュージックの継ぎ合わせ。それはまるで子供の悪戯であるかの如くチグハグな軌道を描き、2001年宇宙の旅ばりの悪意的な絶望を共にさせるアンモビウム。これが20曲なのか2曲なのかは知らない。

※ロマニーとは『インド・ヨーロッパ語族のうちインド・アーリア語族派に属するロマニー語を話し、人種学上はコーカサスの型に属して黒髮・黒眼を特徴とする漂泊の民』。一部の話によると「愛を求めて旅をし続ける一族」らしい。彼らは占い等で生計を立てている。らしい。

SAMLA MAMMAS MANNA/MALTID

Maltid

Maltid

勿論関西人全員がそうではないが、比較的マジョリティにおける関西人というのは行動/言動においていかに笑えるかというのを重要視するきらいがある。シリアスをユーモアに、ユーモアはシリアスに。自虐こそ少ないが他人を攻撃する笑いのエネルギーはNo1であろう。時々つまらない事を少しでも和ませようと思って言った言葉が人を激怒させる事が多々あるが、私はそこを人と付き合うかどうかの目安にする。そういう人とはあまり関らないようにする。多分これが私の処世術であり続けたような気がする。処世していくのはよいが、逆にどこまで本気か冗談か本音か嘘か分からない奴と思われる危険を伴う諸刃の剣でもある。もう一度言うが、勿論関西人全員がそうではない。
全く話は飛ぶが、関東における電車の種類は「各駅停車」「急行」「快速急行」等である。今まで不思議に思わなかったが関西では各駅停車が「普通」である。各駅停車はいたってそのまんま至極分かりやすい。しかし「普通」っていったい何が普通なのだろう、と最近ふと思った。京阪電車では豹柄を着た太ったおばちゃんはいるし、年寄りは皆飴のことを「あめちゃん」と呼ぶ。別に本人達は笑わせようと思ってはいないが、どこかすっ呆けた雰囲気があるのが良い。
そしてプログレ界隈においてすっ呆けた「笑える音楽」を堂々と取り入れたのはサムラであろう。比較的シリアスで考え込む部類の音楽を更にテクニックのみで埋め尽くした音楽に呼吸困難を覚え逃亡する者も多々いるだろう。サムラはその中で「ユーモア」を持ち込み現実的な空虚感、社会的な隔絶感すらも「お茶の間劇場」に仕立てて笑わせようとする所謂辺変態系辺境プログレの代表格である。シリアスは苦手なんだよ、という君に是非。今回の紙ジャケ化はリマスタリングにより音圧も上がり(K2コーディング仕様)、ボーナス・トラックも輸入盤と同様追加された決定版。

BARCLAY JAMES HARVEST/AND OTHER SHORT STORIES

アンド・アザー・ショート・ストーリーズ(紙ジャケット仕様)

アンド・アザー・ショート・ストーリーズ(紙ジャケット仕様)

  • アーティスト: バークレイ・ジェイムス・ハーヴェスト
  • 出版社/メーカー: EMIミュージック・ジャパン
  • 発売日: 2008/02/14
  • メディア: CD
  • クリック: 3回
  • この商品を含むブログ (1件) を見る
私にも勿論猫も杓子もプログレという時代があった。Harvestなんていうレーベル面を見るだけで興奮し、ネオン、カリスマなどの単語がその辺から飛び出すと真っ先にプログレに結び付けていた。ロバート・ジョン・ゴドフリーのソロ作を夢見(紙ジャケ化が実現するまでは中古市場で破格の値が付けられていた)、ムーディーズの諸作を聞いた後は躊躇無くバークレイ・ジェイムス・ハーヴェストを聞くハメになり、そして涙した。世間ではこれらを泣き虫軟弱系プログレと称して馬鹿にする風潮があったはずだが今はどうなのだろう。しかし幸か不幸かこのバンド、ちっともプログレではなく当時のブリティッシュ・ロックそのまんまで、寧ろウィッシュボーン・アッシュとかと一緒に語られる方が割と自然なポップ・ロックで、初期(Harvest期の2枚目迄)の先述したロバート・ジョン・ゴドフリーが関った契機があるせいか、そのままプログレの仲間入りになり、更にはその中で閉め出しを喰らいそうになる可哀相なバンド、という印象が強い。しかしそういうポジションに臆することもなく絶妙に歌心を発揮し、壮大なオーケストラを交えたハーヴェスト期〜ポリドール期の作品はだいたいハズレが無い(というかそれ以降はあまり知らない)。今の時代に新参者がバークレイ・ジェイムス・ハーヴェストに興味を持つ、なんてことが在り得るのかどうか知らないけど、よくいう形容に例え断言するならば、バークレイ・ジェイムス・ハーヴェスト好きに悪い奴はいない。俺を除いて。