ZAPP/ZAPP

Zapp

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ブッツィー・コリンズの協力の下トラウトマン・ブラザーズの華麗なる栄光と挫折の始まり。ソウルの新たな彼岸を目指し、リズム・アンド・ブルーズの電子的解体の道すがらそれが80年代のソウル・ミュージックの構築の道しるべと知る。故にプリンスとロジャー・トラウトマンはP-FUNKの後継者としての地位を手に入れた。
私の思いとは裏腹に90年代後半より彼らの楽曲はサンプリングの的となったが、私は未だにソウル・ミュージックとファンクの未来をザップの登場に重ね合わすのである。クラブとかは大嫌いだけれど、ダンスフロアー(zapp?収録)がガンガンかかるならちょっと行きたくなる。

THE PLASTIC PEOPLE OF THE UNIVERSE/EGON BONDY'S HAPPY HEARTS CLUB BANNED

muyubyou2009-04-18

Egon Bondy's Happy Heart...

Egon Bondy's Happy Heart...

音楽に政治を持ち出すとロクな事はない。何よりもまず胡散臭い。そのろくでもない事を体現し続ける愛すべきプラスティック・ピープル・オブ・ザ・ユニヴァース。当時の日本における学生運動全体主義と流行に左右され単なる社会現象と成り果てたが、本物の闘争とは己以外すべて敵であってもまったく微動だにしない精神を表す。故に勝利も敗北もない。闘争すべき相手は何を隠そう己自身である。
サージェント・ペッパーのパロディのようなタイトルとは裏腹に荒唐無稽なまでのフラストレーションを溜め込んだ演奏、ビーフハートおちゃらけたヴォーカルが支離滅裂と繋がっていく様は不快を通り越して快感である。ZNRの前身バリケード、エトロン・フー・ルルブラン好きは是非。

STILL LIFE/same

muyubyou2009-04-17

Still Life

Still Life

綺麗な花には棘ならぬ晒され頭(髑髏)がある。このハモンド・オルガンを聞くにつけ暗黒漆黒の学生時代が記憶の底から蘇り、煙草臭く湿った守口市(大阪)の一角が目の前に映し出される。奈落の底に落ちていく感覚であった学生時代、歳を重ねるにつれそれらは幾分マシになっていくのだろうと高をくくっていたがなんのその、日々底抜けていく奈落の底とはいったい何なのだろうとPeople in blackを久々に聞き感慨(?)に耽る。
Vertigoよりリリースされた当時は謎であったSTILL LIFE唯一作。オリジナル盤は依然高値で取引されているらしいが、プログレ界隈では『謎』が高く売れる。

AMON DUUL/PSYCHEDELIC UNDERGROUND

サイケデリック・アンダーグラウンド(紙ジャケット仕様)

サイケデリック・アンダーグラウンド(紙ジャケット仕様)

紛れもなき「恋唄」の変容である。その誤差に矛盾を感じる愚か者はきっと男女の機微に明るい者であろう。ここに記録される取りとめのない音述に(ファンファーレから時にメサイアの引用まで)、テープ操作、コラージュなんたらと語る愚かさを知れ。ここにあるのは堀内孝雄が歌い終わった後に叫ぶ「サンキュー」と同義なのである。

ARCO IRIS/ARCO IRIS

Coleccion Rock Nacional

Coleccion Rock Nacional

御無沙汰也。空白の期間の由無事をとりとめなく語るより、この珠玉の一品でそれら空白は事足りる。言うなれば針を縫う江川小林盤。γGTPの数値を元に戻してくれそうな中性ヴォイスとそよ風の如し演奏。アルゼンチン・サイケの面目躍如。

などという何処にでもある文句はこの際一切止め、本心を告白する。俺は裏ジャケにあるマッポのヨガ写真こそこのレコードのもっとも重要な部分であると断言する。

NURSE WITH WOUND/THE BACTERIA MAGNET

muyubyou2008-07-21

暑中見舞。滑稽無形なまでにロックンロールで空前絶後のダンス・ミュージック、そしてソウル!(二人の女史シンガー参加)。お腹の中に子供がいるのよ、と唐突に言われた時の殿方の瞬間冷凍フェイスを見事パッケージングしたNWW新譜。日常風景がドラスティックに変貌し、コミックの世界と同化し、しなやかに大量殺戮的悪夢となる。ステップルトンの冷ややかな嘲笑は未だ続く。Huffin' Rag Bluesと二枚(ほぼ)同時リリースされこちらはvinly only。

三上寛/三上寛のひとりごと

三上寛のひとりごと(紙ジャケット仕様)

三上寛のひとりごと(紙ジャケット仕様)

独り言。
不毛、という言葉が好きだ。この一語で大よそ人生の終着地へ辿り着けるかのような錯覚と慰めにも似た安堵を感じることができる。虹ですら15分たてば人はもう、見向きもしないのである。
三上寛の詩、唄は多分ずっと前から、そしてこれから先も不毛の果てにあり、その先にある。大半の唄は人の心を抉ったり突き刺したりはせず、同意を求め、過剰な装飾に守られ、平和である。三上寛の唄は人の心を抉り突き刺し、同意は求めず、装飾を放棄し、孤独である。三上寛の唄・詩をモラトリアムに哲学書の如く聞いてきたものにとっておそらくその後の人生はマジョリティ的に、決して明るい未来は無かったはずである。しかしマジョリティ的に明るい未来の胡散臭さは多分誰よりも知ることが出来るのかもしれない。