JUTTA HIPP WITH ZOOT SIMS/same title/BLUENOTE 1530

With Zoot Sims

With Zoot Sims

その4.続けてブルーノート、1500番台の奇跡をお届け。その名は『ユタ・ヒップ物語』。どんな名のある映画にも劣らない小さな奇跡と思い出。

ドイツ人女性ユタ・ヒップはとある男との出会いによりニューヨークに渡ることとなる。その男の名はレナード・フェザー、評論家である。ドイツのクラブで演奏するユタ・ヒップのピアノに魅了され、ニューヨークへ行かないかと声をかけたかかけてないのかは知らないが、彼女は自身の憧れの地であるニューヨークへ渡ることとなった。時は1955年11月18日。レナード・フェザーはアメリカにおける彼女の保証人となり、弁護士も紹介した。ユタ・ヒップはレコードで聞いていた本物のJAZZを聴きにライヴ・ハウスへ通った。出演しているのはあのカウント・ベイシー楽団、マイルス・デイヴィス。その演奏にショックを受け、ユタ・ヒップはしばらく演奏することが出来なくなってしまう。そんな時も、レナード・フェザーやその他友人達の励ましを受け、ユタ・ヒップは再びジャズ・クラブに通い、自身もピアノに向かうようになる。レナード・フェザーは知り合いのレストラン兼クラブ(ステーキハウス)に彼女を紹介する。勿論、その店の名は「ヒッコリーハウス」である。同レストラン兼クラブのプロモーション担当であるジョー・モーガンはピーター・インド(b)、エド・シグペン(ds)を彼女に紹介する。これで立派なトリオ完成である。1956年、待ちに待ったキャバレー・カード(所謂クラブで演奏を認可する証明書)も交付される。ヒッコリーハウスの専属ピアニストとして彼女のニューヨークでの生活がここに幕を開けたのである。
レナード・フェザーは親友であるアルフレッド・ライオンに以前からユタ・ヒップを進言していた(因みにブルーノート・ニューフェイセズ・シリーズにおいて10インチ盤で彼女のドイツ、フランクフルトでの録音が発表されている、これは勿論渡米前の話。)。アルフレッド・ライオンはヒッコリーハウスへ通った。そしてキャバレー・カード交付間もなく、ヒッコリー・ハウスにて実況録音されることとなったのはご存知ヒッコリー・ハウスのユタ・ヒップvol1と2。
時は同じくしてアメリカ西海岸よりニューヨークを目指した男がいた。その男の名はズート・シムズズート・シムズはヒッコリーハウスにて彼女と共演する。歳が同じだった。同じくニューヨークを目指した者。白人。境遇的に共感もあっただろう。いつか、二人で録音できれば・・・。ユタ・ヒップブルーノート・オーナー、アルフレッド・ライオンにズート・シムズと一緒にやりたいと告げる。アルフレッド・ライオンもまた当時ズート・シムズに興味を抱いており、ここに共演盤を企画。多分、ユタ・ヒップ最後のブルーノート盤。1956年7月。JAZZがもっとも熱かった時。
1958年、彼女は静かにピアノを弾くことを止め、ドイツへ帰国する。ズート・シムズはその後一躍有名、スタン・ゲッツと並ぶ白人テナーの名を欲しいものにした。その後ユタ・ヒップが死んだことぐらいしかたいしたニュースは伝わってこなかった。ここ日本においては。勿論ニューヨークでも。以上、二人の足ながおじさんとユタ・ヒップ物語でした。若干、誇張あり。
因みに、この盤について。今更内容の良し悪しについて云々するのも躊躇われるぐらいの名盤です。コートにすみれを、を聞けば分かる。