シチューが食べたい

ジャンルレスに音楽を聴こうと心掛ける人は、月に最低20枚ぐらいは購入しているような人が多いことと思う。現在は「情報天国」であるからにして、なまじ知識に長けてくる。
次第にその知識のみが先行し、知識というものが、音楽→知識というおまけ的なものから知識→音楽というふうに本末転倒の変化を示すようになる。

多分これは誰にでもあり得ることだろうと思う。私も他人のレヴューを読むのは好きだし、それを参考にして買うという事自体、いつの時代においても、どの分野においても理路整然としていると思う。
時に、知識というものはヒエラルキーを形成するようになり、初心者、上級者という格付けを行う。その格付けを所有枚数などで見定めるようになる。聴いたかどうかでなく、所有しているかどうかが重要になると思い込む。一方で、「所有枚数なんて、知識なんて関係ないよ」と、私はこのように心の広い人間なのだよ、とアピールするのである。

原始時代、誰かが「ここから先は俺の土地だ」と線を引いた。所有欲の始まりである。「私」という動物は人間である「個性」を求め、その実態のない「個性」という幻想よりも、所有という「安心」できるモノを選ぶ。その所有を見定め、格付けし「個性」が形成される。私という人間は唯一の存在であるとして、排他的、閉鎖的に違う個に対して喧嘩をしかける。
これも、理路整然としている。
現在はこれにますます拍車をかける資本主義という時代である。
話が飛躍しすぎた。音楽の話だった。

私のようなデータを非難している人間こそ、実は所有欲の権化なんじゃなかろうか、とこの度考えた。一番形式にとらわれているのは偉そうに語るお前なんじゃないか、と。反論の余地もない。
私自信が偽善であるような気もする。

突き詰めると、どーでもいいような気がしてきた。これにて、長きに渡る日記を終了する。
とりあえず、今は、シチューを食いたい。