快楽主義の哲学

とりあえず私は、何かにつけすぐにモラルだの道徳だのという言葉を用いる奴(或いは使いたがる連中)が大嫌いだ。
あくまで、私がその人達を嫌いなだけであって、その人達の人格を否定する気はないし、さぞかし立派な人間なのだろう、と想像する。敬意も表する。そして私がただ嫌いなだけだ。こちらも嫌って貰って結構。
私が言いたいことは、むやみやたらと、やれモラルだの、やれ人としての・・・、という言葉を連発させる連中は極めて胡散臭いという事だけである。これだけは、間違いない。

そういう風に私は今まで短い人生を生きてきたわけだが、澁澤龍彦の本ではもっと分かりやすく書かれていたので、紹介。並びに引用。ちなみに、この人も多分どうしようもない人だと思う。

澁澤龍彦/快楽主義の哲学

快楽主義の哲学 (文春文庫)

快楽主義の哲学 (文春文庫)

          • たとえば秋の台風のシーズンに、刻々と進路を変える台風が、ついに西日本に上陸したと仮定します。そうすると、東日本に住んでいる人たちは、「やれやれ助かった。」と安堵の胸をなでおろす。考えてみれば、自分たちは助かったかもしれないが、西日本の人たちは、たいへんな災難に襲われているのです。でも、そんなことはあまり考えない、たまたま九州に親類でもあれば、親類の安否を気づかうくらいのものです。人間なんて、そんなものです。

 そういう人間の無関心さ、冷淡さに義憤をもやして、「同じ日本人じゃないか!」などとわめく人がいます。そういう人に対しては、「じゃ、日本人でなければいいのかい?中国で原爆実験をやって、蒙古人やチベット人の頭の上に、死の灰が降ってきても、被害を受けるのが日本人でさえなければ、かまわないというのかい?」と反問してやるがよい。そうすると、今度は「同じ人間じゃないか!」という人がいるかもしれない。
 しかし、それならなにも台風や原爆実験の問題にかぎらず、アメリカの黒人差別の問題にしても、ベトナムの動乱にしても、革命にしても、あるいはもっと小さな問題、---一家心中にしても、失恋自殺にしても、自動車事故にしても、山や海の遭難にしても、---わたしたちは人間として、それらの不幸にけっして無関心でいることは許されません。<中略>
誤解のないようにお断りしておきますが、わたしは人間社会の現実の姿を、ありのままに述べたのであって、善悪の問題を論じたのではありません。

と、まぁ最近の少しだけ捻くれたような人なら誰でも思ってそうな事を態々引用してみました。昨年の災害多発と重なりあったんで。
その災害の折にも、こういうエセ・ヒューマニズムのモラルで嘆くお偉いお方が多々いたが、政治家を始めどいつもこいつも偽善垂れ流しで見ていてストレスが溜まり、しかもそういう奴に限って、先のイラク人質事件において「自己責任だ!」と言うような俗物なのである。
つまりは、受難的な災難にはヒューマニストを気取り、自ら進んで災難に突入し、挙句の果てに迷惑をかけた人は、自己責任なのだそうだ。とんだ、ヒューマニズムである。更にはこれに便乗し、若者の「自分探しの旅」批判である。

話を戻して、モラル論。
えてしてモラル族は、ルールを観念的に捉え、しかも満更神が作り上げたと信じていてもおかしくないような人間がワンサカといる。
身近なところで言うと、我が父親。
なまじプライドが高い人は、とりあえず自分の考えは絶対的だと思っているので手に負えない。しかし、意見を聞いて考えを改めることもあろうかと思う(誰にだって)。その「考え」を改める意見の基準を「権力、地位」で判断する。
そして、時には弱者に同情し(しかもそれが自身の良心を満足させるという目的のため)、偽善をぶちまける。


私はこういう博愛主義に見せかけたファシストどもに断固抵抗しない。
平和主義一番。